

慶應義塾大学理工学部 教授
栗原 聡氏
PROFILE
目次
02 好奇心がチャレンジ精神を育む。子供たちへの教育が重要
03 守りに入っているだけでは、何も発見はできない
04 自由な研究が担保されることが、理想の産学連携
05 日本は、AIと人間が共生できる国だと信じている
米国の後追いをして成功事例を真似するのは、お金の無駄
―中国がすごく社会的に余裕がある国になって来ています。独特な動きをするヒューマノイドロボットを作れるというのも、遊び心があるからです。片や今の日本には、そういった遊び心や余裕がありません。だからこそ、イノベーティブなものが出てこなかったりします。実は先生の著書絡みで、どうしてもお聞きしたかったことが二点ございます。せっかくですので、質問しても良いですか。まず一点目は、中国企業が開発したAI言語モデル「ディープシーク」がもたらしたインパクトをどう捉えておられますか。
ディープシークの彼らは世界に注目されるだけの仕事をしたわけですが、これは彼らだけの成果ではありません。ITの文化は、皆で色々なアイデアを出し合うことによって、それこそ「共生」すること、創造することで良いものを作っていこうという精神で動いています。その一つの成果が今回のことだと思えば、彼らだけではなくて、彼らが使った技術、その技術を生み出した人たち皆の業績なわけです。そう見たときに、彼らとしては皆がやってくれたことを土台にしているからこその成果なのです。
ならば、日本を見たときにGPT-4(OpenAIが作ったマルチモーダルな大規模言語モデル)とかを作ろうとすると、全部で数百億円ものお金が掛かってしまいます。日本の場合だと、今でも経済産業省ではGENIAC(ジーニアック:経済産業省が推進する生成AIの支援プロジェクト)を通じて、それなりのお金を流出しています。もちろん、米国のビッグテックに比べれば桁が少ないのですが…。しかし、ディープシークがチャレンジしたことに対して照らし合わせて言えば、50億以上ものお金が流れてきているにも関わらず、ディープシークみたいな新しい成果が日本では出て来ません。
これは、どういうことなのでしょうか。日本も、それだけのお金はあったわけです。だとすると、日本から出てこない理由は簡単です。日本は結局、米国の後しか追っていないからです。後を追おうとしたときに、日本の額では圧倒的に足りません。そうすると、日本はどうすれば良いか。ドメインを限定するとか、やはり使うところを限定しましょうという取り組みになります。
人工知能は、そもそも大きい小さいではなくて、どこに活用するかは重要です。その考えで作っているのは良いのですが、日本企業、日本の色々なスタートアップやベンチャーが描くAIモデルは、ビッグテックが作るぐらいの大きなものはできないものの、小粒でそこそこの程度という言い方をしています。だから、もう最初から負けているのです。
やはり,オリジナリティがあって皆が使ってくれる人工知能を日本でも作らないと意味がないと考えています。皆が使える人工知能を作るときに、米国の後ばかりを追っていたらできるわけがありません。何をすることが米国の後を追わずに、皆が使うものを作れるのかと言ったら、ディープシークのやり方はその一つだったのでしょう。
そういった視点で見ると、日本もまだまだできることはあるはずです。しかし、それが成功するとは限りません。でも、チャレンジしなければいけないのです。ただ、誰もチャレンジしようとしません。確実にやったらできることだけをしようとします。それが、ビッグテックのようなモデルを作ることです。これなら成功事例がありますからね。だけど、成功事例を真似しようとすると圧倒的にお金が掛かります。でも、日本はお金がない。だから、言い訳をしているというのが、今までの日本の流れです。これでは、詰まるところお金の無駄です。その意味では、お金を相当無駄にしているかもしれないというのが、すごく気になります。だったら、もっと現場の企業を応援するために使うとか、違う使い方をした方が良いのではと思ってしまいます。
好奇心がチャレンジ精神を育む。子供たちへの教育が重要
―栗原先生は、大学で教鞭を執っておられます。ビジネスパーソンや学生も含めて、今後AIが当たり前になっていく社会を迎えるにあたり、今学ぶべきこと、これから身につけることは何だとお考えですか。
これに関しては、僕の考えは一貫しています。重要なのは“好奇心”です。色々なものに興味を持つこと。それが、チレンジ精神に結びつくと思います。色々なものに興味を持つためにも、“多様性”も大切です。ただ、それは結構難しいです。“多様性”を理解するためには、今自分がどういう状況にいるのか、それは別に今いる場所だけではなくて、社会的なものもそうですし、どれだけ広く、ある意味客観的に見えるかという状況把握能力も大切です。あとは当然、文脈理解も挙げられます。どういう流れできているから、次はこうしてみようとか。そして,あるアイデアが浮かんだ時,さっきの流れとつなぎ合わせるとどんな展開が想像できるかな?とか.そういった文脈の流れに基づく発想は,詰め込み型の教育をしてきてしまった日本、そして,プロセスではなくすぐに答えを求めがちな日本では、難易度が高いと言わざるを得ません。
これは今に始まった話ではなく、昔から指摘されている日本の弱さです。それが、より顕在化して来ています。これが明らかにイノベーティブなことが起きなくなっている要因だと思います。すごく危険な状態にあるわけです。
ですから、僕が現在会長を務める人工知能学会では「これからは特に教育が重要だ」と叫んでいます。誰を対象とした教育かというと、もうすぐ大学に行く高校生ではなく、小学校や中学校に通う子供たちです。その子たちが、イノベーティブな能力を身に付けるにはどうしたら良いのか。逆に言うと、初等教育において人工知能の教育や情報教育は極論は不要なのかもしれません。何のためにAIやITを早々に教育するのかの趣旨は正しいのだと思いますが、現場における実態との乖離が大きいという現実があります。AI時代において何が求められる教育なのかについて、僕らの仲間内でも熱く議論しているところです。
守りに入っているだけでは、何も発見はできない
―栗原先生は院生・大学生をご指導されておられます。彼ら・彼女らを見ても刷り込み型教育の弊害をお感じになられますか。
感じますね。もちろん、「全員がそうだ」とは言いません。例えば、研究では新しいことにチャレンジしたいわけです。ところが、学生は確実にできることをしたがります。それは、研究でもなんでもありません。それから、僕自身が答えを知っているとしたらやる意味がないですよね。「ならば、どうしたら良いですか」と学生は僕に聞いてきますが、「自分で考えてほしい」と言うようにしています。
その時に「わかりました」と言って色々悪戦苦闘する学生と、結局はレールを引いて通してあげないといけない学生に明確に分かれる気がします。
―二極分化しているということですか。やはり、問題意識を持たない限りは研究になりませんよね。
特にAIの研究になってきますと、ロボット工学や行動経済学、ネットワーク科学、社会科学など色々な学問が学際的に合わさってきます。自分がこれから研究しようとするものが、もちろん対象とする分野がどうなっているか、今度はそれに対してさまざまな知恵を付けていかなければなりません。ところが、チャレンジ精神がないというか、安易に生きている人は、順番に学習していけば何とかなると思ってしまうんです。
ところが、実際にはあれこれ虫食い的に勉強していかねばならず、それはすごく不安なものです。「この知識が足りない」「あの知識も身に付けなくては」と思ってしまうからです。ただ、ある程度知識が付いてくと「これとこれが結びつくのか」と段々見えて来ます。その過程をすごく不安がるというか、嫌がってしまう。だから、常に自分が安全なところにいないと嫌なのです。それで、守りに入っているわけです。こうなればなるほど。「トライしてみよう」とならないので、それができる、できないという差が出て来てしまいます。

自由な研究が担保されることが、理想の産学連携
―人間形成の上では、小中学生ぐらいから「チャレンジを促す」「失敗を共有する」教育が、とても大切だと思います。学問だけに限らず、仕事でも若い頃はまだそれほど経験もないし、知識もなかったりします。なので、最初は点ばかりを学習して、それがいつの間にか線になって、最終的に面になっていくのだと思います。それがまだわからないので不安だというのも同意できますが、不安にならないようにしないといけません。今の若者や子供たち見ていると、どうしても安全に生きていくような教育しか受けていないと思ってしまいます。
次に、産学連携に関してもご質問して良いですか。先生がお考えの「理想的な産学連携」とはどのような形でしょうか。日本の企業と大学・研究機関との連携を深めるためのご提案があればお聞かせください。
あるべき産学連携としては、まず大学としては、やはりチャレンジをしていかないといけません。怪しいことをしても良いのです。一方、企業としては怪しいことといっても、何かしら具体的なモノにしないといけないのは当たり前です。その点、米国では企業が大学を上手く踊らせて怪しいことをさせています。大切なのは、そこの中でいかに両者が新たな知見を得るかということ。それが恐らく理想だと思っています。
しかし、僕らからすると組む企業が「確実に事業化できることをやってください」と言われた時点で、シュリンクしてしまいます。そうではなく、「何でもやって良いですよ。その代わり、我々としてはその中から使える物だけを見つけていきます」といったカップリングができるかどうかが肝だと思っています。そうすると当然、組める企業が限られてきてしまいますが、良い産学連携だと思います。そうした企業を引き寄せて成果を出していく形になっていかざるを得ない気がします。
―企業が大学の先生方、研究者に求めるのは事業化やROI(投資収益率)、リターンだったりするのですか。
その傾向はやはり強いです。つまり、企業に余力がなくなってくれば、そもそも研究をやらなくなるわけです。企業における研究は、やはり役立つものを見つけるという直近のことになってくるとすると、それを大学に求めがちになります。結局、大学に対して「すぐ事業化ができるものを考えて」と言ってきかねません.でも、本来のチャレンジングな研究というのは、やってみないと分からないのです。
そうであっても、僕らもそもそもお金がなければ研究はできません。国プロ(政府予算による研究開発プロジェクト)も直近の成果を求める傾向が強くなる中、チャレンジ的なものにお金が降ってこなければ本来の研究ができなくなってしまいます。
日本は、AIと人間が共生できる国だと信じている
―若い人たちにもっとチャレンジして頑張ってもらうためにも、我々企業の人間ができるだけ彼ら・彼女らをサポートできる仕組を作っていかないといけないと思います。自由に研究できる、自由にチャレンジできる、そういった産学連携ができることを願いたいです。最後にAIを起点にして日本の未来や理想的な日本の社会や産業の姿は思い描くとすると、どういった形になりますか。ぜひ、お聞かせください。
本来の日本人が持っていた気配りや寛容さを取り戻さないとまずいと思っています。日本人には、グローバルレベルでの多様性はなかなか難しいです。日本は島国ですからね。ただ、日本の中で見たときには、もともとアニミズム(万物に霊魂が宿るとする信仰)であったり、色々なところに神様がいると考えたり、それから日本文化にはさまざまなキャラクターが出て来ます。それは、漫画とかエンターテイメントの世界ではないとしてもです。
僕らには、色々なものが僕らの世界に入ってくるときに、いわゆる生態系や多様性とか、人間が自然を牛耳っているわけではないという、西洋とは違う考えが日本には根付いているはずです。それは、今でも完全にはなくなってはいないのだと思います。そうすると、本当の意味での人とAI。この場合のAIは、これから先に来る自ら考えるというAIですが、これが本当に社会で一緒にいるという世界は、日本社会ではある程度可能だと僕は思っています。
その中では、日本人としての包容力であったり、自利利他の精神(自分だけでなく他社の幸福をも追求する考え方)をAIが思い出させてくれるかもしれません。そうした世界が戻ってきてくれる唯一の国だと思っています。これが、逆に人間が中心で、AIは単なる道具だという欧米に対して、日本の良さをアピールできる気がしています。
日本は良く「ガラパゴスだ」と言われるじゃないですか。でも、ガラパゴス化しているということは、日本がそれだけ他と違うということです。それはそんなに悪い意味ではないと僕は思っています。ガラパゴス化で何が悪い!という話です。
日本は、良い意味でAIと人間が共生しる国だと思います。それが実現できたときに、産業ももちろん活性化していて、イノベーティブなことが次々と起きてくるような社会であってほしいです。そういったビジョンを僕としては持っています。
―島国でガラパゴス化していることは、逆に今強みになっているということですね。インバウンドの人たちからすると、日本の文化や伝統は非日常そのものだと思います。すべてが非日常である、これは日本人の強みだと先生の著書『AIにはできない 人工知能研究者が正しく伝える限界と可能性』でも記されていました。
西洋人にとって神様は唯一であり、それに基づいてヒエラルキー(階級構造)が出来上がってしまっています。日本人は、どこにいても神様を持ちます。そうするとAIに対しても神と思う人が出てくるかもしれません。日本人として永遠に受け継いできた文化や長いこと築き上げてきた習慣が新しいテクノロジーと結びつくことで、すごいイノベーションが起きそうな気がします。それは、日本人にしかできないようなイノベーションかもしれません。栗原先生、貴重なお話をありがとうございました。